金盃の創業者 高田三郎


蓮華院妙實日芳大姉 俗名 時子より

高田家二代三郎は、梅吉の長男。明治三(庚午)年二月六日を以て生る。八歳、多賀小学校に入り、数年を経て、隣村柳澤小学校に復習試験と言える一種卒業試験の如きものあり。各校より一名の優秀者を選びて、これに応ぜしむ。三郎、多賀校より選抜され、これに及第せり。

当時の教科書なる日本略史漢史一班等、今なお保存せられ、家宝の一たり。また、常に古文孝経を愛読し、躬行(きゅうこう)(おこた)ることなかりき。

十六歳、大阪に出で、木曽川家に仕うること二年、商人たらむと志し、母の親戚、岸本五郎兵衛氏が神戸にて、酒類の販売及び、製樽に従事せしこと聞き、祖母西田氏を以て意の存する所を通し、快諾を得て、岸本家に仕うること二年、主人の逝去に遭い、ここに独立して、一高店を経営す。 時に年二十一以来、専心営業の進展に努め、偶々父梅吉が永年杜氏として、宰せる郡家の酒造場の廃業に際し、これを継紹して経営するに一は父をして、営業主たらしむるの孝志と一は三郎多年の抱負たる。薄利多売を自家醸造を実行し、ここに郡家に酒造業を開始せり。先考没後、醸造場を摂津灘大石に移し、規模を増大し、銘品の醸出に力(りき)め、東京横浜大阪の各大都市に支店を設け、代表銘酒金盃ならびに本鷹横綱等、三郎還暦の歳において、造石高一万石と超えるに至れり。 昭和六年八月黒代の墳墓修築功竣り、達碑の落慶を報じ、この家譜を誌す。

明治四十四年一月神戸市の金融機関こうて一銀行を創立せんことを企図し資本金二十万円をもって、神戸実業銀行を設立し、大正八年一百万円に増資。支店を市内各所及び、御影に設置す。大正十二年七月三十八銀行と無条件合同の議を遂行す。

関係事業の役務は

公職として選任されたるもの

高田三郎を偲ぶ 南 善一著書より

銀行と信託の二大事業を起した故人はそれと前後して、商業会議所議員や、市会議員にも出た、選挙には高点を勝ち得たし、手腕も財力もあるので隠然、重きをなした。 然るに何れも、一期だけで止して、政治的野心を自制せられたことは、普通には中々出来難い事、そして今度は本業の方に専心して、銘酒醸造家として名を成さんと志し、灘の大石に、醸造場を新設したのである。

そもそも、灘一流の銘酒家として天下名声を博する迄には、真に容易ならぬ苦心と、永年の犠牲を払わねばならぬ、即ち今日では一流銘酒の機構は一万石以上で無ければ採算がとり難く、しかも商品の性質上初から、名の売れておらぬ酒を年に何千石とは、銘酒の格で売捌けるもので無い。 また酒は生き物で気候や技術の関係で年々良質ばかり生れ難い、もし創業仕上げ途中、あるいは一年失敗すれば、何年か黒星に沈淪しなければならぬ。 という訳で菊正宗、櫻正宗等一万石以上の酒屋は、全国にも十指を数えるに過ぎずして、それらは、皆何百年とか何台とかの歴史を有するのである。 それを故人は一代、しかも大正年代の十数年で略略成し遂げた。 之は要するに、熱烈なる敢闘の意志と難局に挫けぬ大胆と一方には多年築き上げた、自家独特の販売能力とに依るもので、他の企て、追随を許されるべきもので無い。

吟醸ということは、中々難しく、優品を年々揃えて醸造することは至難の神技とせられる。 然るに故人は、当時の優良銘酒にあきたらず嗜好の向上を達観して、今の銘酒の品質を開拓したのだから創業数年の苦難はいわずもがなであった。 いろいろと莫大な犠牲を払った上、しばらく日本第一の杜氏を求むるにしかずと決意した。 それを全国に探し求め遂に広島に見出した。礼を厚くして迎えんとしたが、かほどの技量ある人は、先方親方とて厚遇して離さない。 いわんや醸造界で、まだ三流の高田へ、倉替するもので無い。 しかし射落とさねばおかぬ故人の熱誠は、二年にわたって、将来の大望を説き、給料も一躍前家に倍し、年額四千円近くもポンと張込み、遂に抱えた。 当時何万石の灘第一の杜氏といえども年に二千何百円であったのに、まこと杜氏の神技が成敗を別つと見込を付けたろう、一労働者にすら知事給を惜しげもなく出すという故人の性格と手腕は、ここにも鮮やかに顕われている。見込まれた杜氏は寝食を忘れて技を練るは当然。 それ以来年々抜群の優良酒が生れ、銘酒品評会に数年連続して第一位を占めるという離れ業に、斯界を驚かせ、断然頭角を現わした。

この勢いに乗じ故人は、大阪に卸問屋支店を新設する、更に矢継早に東京、横浜にも支店を開き、一流銘酒「金盃」として天下に呼号するに至ったのである。

大正十一年東京支店を開き、得意開拓の為め積極的に掛売を拡げた翌年、関東大震災の襲来に遭った。 巨額の掛売も、店も、商品も全滅の厄を被ったので、この傷手は支店開設後日が浅いだけに大抵な者なら辟易するところであったのに、屈託なき故人は、かえって商機逃すべからずと、未だ余燼の消えやらぬに先輩同業に魁けて、建築資材と商品を満載して船一艘、積出し京橋南新川に大建築を逸早く成し、帝都の人目を驚かせた。 品払底に艱む関東一円の小売酒屋は大旱の雲霓が望むが如く、財布を頸に陸続と買出しの車が、押しかけたのであった。 この一挙によりて昔から有名な江戸の酒棚の老舗と肩を並べたのである。故人はこの震災による何十万円からの損失を、老舗料として安いと思われたか、一口も愚痴は漏らされなかった。

また金盃という商標一つについても、その来歴を質せば、容易ならぬ犠牲を払っている、初め、金盃菊正宗という標であった。 昔から酒の王と称えた菊正宗に対抗せんとする雄大な下心で買収したものらしい。 菊の醸造元嘉納本家といえば、因習をとうとぶ斯界に君臨するものであったから高田など歯牙にもかけていなかったが「金盃菊」が年々台頭する様子に「この類似商標うるさい」とあって、一喝の下に屏息せしめんとした。 ところが故人は、その傲慢不遜な態度に憤慨して反発した。 先方は何を小癪と訴訟し、以来十年、一勝一敗の間、互に意地づくで争い抜き、遂に大審院にまで持出した。 嘉納方は万一、敗れては沽券にかかると大政治家までも動かす。 裁判所も慎重に扱って、何とか妥協せしめんと勧められたが、故人の剛毅不屈の性質は、金などにては納まらず四つに組んで延期を重ねていた。その後、故人が病気に倒れ意識を失っている間に、養子善次郎氏が円満に示談して、遂に金盃と改めることとした。この争いの費用だけでも、十万円以上も注ぎ込んでいるのである。

こうして故人は灘一流の銘酒家となり、金盃の声価は全国、津々浦々誰知らぬ者無きに至った。